すれ違うアムステルダム

アムステルダムで日本人とイタリア人がフラットシェアをする日常。

料理をすることについて、哲学的に考えてみる

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このレシピメモは、私の母によるものである。大人になってから知ったことだが、母は料理が好きではなかった。そして、これも大人になってから知ったことだが大変な偏食家だ。えっあれも嫌いなの、これも食べないの、「あんまりこれ好きじゃ無いんだよねー」と出てくるは出てくるは衝撃の食材。なるほど、だから私の食卓では馴染みのないものだったのか。父が食べ物の好みが合わないんだよね、と嘆いていたのがようやくわかった。というか、よくそんな偏食だったにも関わらず私は食への好奇心が旺盛で、料理が好きな娘に育ててくれたものだと非常に感心する。私が一人暮らしをするようになって出会った、「最近は珍しい野菜が簡単に手に入るようになったんだなあ、(試して見るのが)面白くて楽しいなあ」という思いは、「もともと昔からあったけれど、ただ我が家に登場しなかっただけ」で私が知らなかっただけ、だったのだ。

 

父は母の偏食についてこうぼやいていた。

「結婚前は蕎麦を食ってたのに。結婚後に好きじゃ無いってわかったんだよ。だまされた気分だ」

「いいじゃない、頑張って嫌いなもの一緒に食べてたんでしょ。可愛いじゃないお母さん」

「だって一緒に行きたい美味しい蕎麦屋にも行けないんだよ、今」

世の中のみなさん、こうして無理をするのはのちに悲しい思いをさせることがあるかもしれませんので、やめましょうね。だまされた気分だ。まるで仮面を脱ぐかのごとく、メイクテクニックを駆使したすっぴんを見せた時のようなセリフだ。だまされた気分だ。背伸びをして、無理して頑張って好きな人と歩調を合わせても、こうしたセリフを吐かせてしまうのですな。そんなことを今言える父も可愛いなって思うけど。

しかし、私はこのセリフを聞いて、母が蕎麦が好きでは無い事実を知った。ついこの間だ。三十年以上も毎年暮れには一緒に年越し蕎麦を食べていたのに、私は自分が知らなかったことにも驚いた。三十年以上やで。だから我が家の蕎麦はオードブルなどがメインで、お碗サイズを添えていたのか。「蕎麦でお腹いっぱいになるより、いろんなもの食べられたほうがいいでしょ。大晦日だし」なんて言って。私は蕎麦に対する悪口を聞かず、何が美味しくないと感じさせるかを知らずに育った。「蕎麦を嫌いになる」という選択肢を思いつくこともなく、蕎麦が好きな健やかな大人だ。なんなら自分でも打って見たい。母の子育て手腕は実に見事である。

 

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ここでもう一度メモをご覧いただきたい。これは、松永家の炊き込みご飯のレシピである。世間一般でいう「炊き込みご飯」は出汁の味がよく効いた、ほんのりとした塩味が美味しいイメージだが、我が家は甘めで濃いめの味。色も世間一般でいう「炊き込みご飯」よりは幾分濃いめだ。家を巣立ってからも、ときどきその味が食べたくなるし、私が帰省した時にはいつも母が作ってくれる。

こちらに来て、ふとあの味が食べたいな、というときにLINEで尋ねたら、しばらくして帰って来た返事がこれである。「レシピ」というには、実は致命的に成り立っていないことをお判りいただけるだろうか。

1. 全てにおいて分量がわからない

2. 手順でさえない

3. どのくらいの量ができるのかもわからない(途中になってヒントが出てくる)


よくよく見ると、「材料 全部 いためて 調味料で味をととのえる」だけで、あとは補足というか、ポイントというか。「※」が4つのうち3つは水(と調味料)の水位についてだ。さっぱりわからない。「あの中にはこれらが入っていたんだな」という成分がわかっただけである。私の記憶のみを頼りに、推測をしながら挑戦するしかないという難易度の高さよ。一度食べた人が「美味しかったから作り方、教えて」という程度では、到底同じものはできないだろう。


ある日、K氏が私の作ったポテトサラダを、「美味しいね、これどうやって作るの」と尋ねた。

「簡単だよ、混ぜるだけだよ」

「何をどのくらい」

「!」



K氏は茶碗蒸しにも、こう言った。「美味しいね、これどうやって作るの」

「簡単だよ、混ぜるだけだよ。誰でもできるよ」

「何をどのくらい」

「!!」


確実に母の血を受け継いでいる、私。
自己を振り返ると、分量を図ることなく適当に混ぜている。食材は「その時食べたい量」。味付けは「記憶を頼りに味見しながら目分量」。人様に教える、ということをしたことがなかったし、人様に教わる(クックパッド先生)ことのほうが圧倒的に多いので、自己の行いについて全く自覚がなかったのである。自分の意識では、「こんなに簡単にできるものらを料理って言わない。レトルトでもないけど。料理まで行かないけど、既製品でもない。自炊」だと思っていた。K氏によると、皿の上に乗った時点で調理される前の姿と違うものは料理だろうが、という言い分だ。
「誰もが混ぜるだけ、で茶碗蒸しができると思うなよ」と。

悔い改め、何をどうやって自分の食べているものができているかを「レシピ的に」リハビリをしようというのがこのブログの趣旨のひとつである。生まれ育った私と母でさえこのようなすれ違いを生むのだから、赤の他人同士ではなおさらのこと。「言ったでしょ」「キイテナイヨ」「なんでわからないのよ」というすれ違いは、きっと小さなところから始まるのだろう。人を幸せにするご飯がきっかけで険悪になるのは避けたいし、美味しいものは美味しく食べたい。何事も甘えずに「伝えることに手を抜かない」のは心がけないといけないことは、前職でキャプテンからいつも教わっていたことだ。

そして料理があまり好きではない母が、「料理」へのハードルを下げ、偏食なく私を育ててくれたことにも感謝している。ゆるくたって、一緒に食べる人と美味しいって言い合えたら、それはきっと料理だ。

 

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